日本のルール

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先日、オーストラリアの大学で教授をしていた(現在は引退)日本人の方と話す機会があった。

その方は日本とオーストラリアの留学事業も数多く手掛けられたが、いろいろ日本との間で摩擦があったことを話してくれた。

たとえば、国籍問題。

多くの日本人を片親に持つ子供は、22歳までオーストラリアとの2重国籍が許されている。

この22歳までというのは、日本側の理屈で、オーストラリアは2重国籍がOKだ。

ハーフの子供が日本の文科省の奨学金をもらおうと応募しても、日本国籍を有するものは資格がないという理由で応募できない。

このためにわざわざ日本国籍を捨てるというのは子供にとって残酷なことである。

日本国籍を有する者は資格なしというより、外国籍を有する者は資格ありといかないものか。

まだある。


以前にも書いたが、日本の銀行口座。

海外に居住する人は基本的に日本の銀行口座が持てない。

2、3年の海外駐在でもほとんとの日本人は住民票を抜いて海外居住手続きを取る。

法律から言えば、日本の住民票を抜いた者は、日本の銀行口座を持てないことになっている。

そんなバカなことがあるかと思うが、法律はそうで、しかし誰も日本の銀行口座をキャンセルしない。

オーストラリアと言えば、観光客でも銀行口座が開設できる。


外国人の土地買収の話。

日本で最近中国人が、日本の水源にあたる土地を買っているということが話題になった。

たぶん中国人にとっては、法律に違反していないのだから問題はないということであろう。


日本は、昔からルールは条文などに書かれたルールだけではなく、常識とか習慣とかで条文化されていないルールがたくさんある。

そのルールで育った人だけは理解できるが、よそからやってきた人はなにがルールなのか理解できず、自分でルールを発見しないといけない。

また海外居住者の銀行口座のように、明らかに今の時勢に合わない法律もあるが、誰も従わないのに目をつむって知らんふりをしている。

きっと何か大きな事故や問題が生じた時点で法律改正になるのであろう。

日本のルールは駐車違反のルールに例えられるように思う。

駐車違反をしないと、ものごとがはかどらないような現実でありながら、当局はその現実を見ることはなく、いつでも取り締まれる環境を作って泳がせておいて、気に入らない者や当局に逆らう者がいたらその法律を適用するというように思えてならない。
以前にも紹介した司馬遼太郎さんの「空海の風景」であるが、この中で空海が10代のころ書いた「三教指帰」というエッセイを紹介している。

その中で若き日の空海は儒教、道教、仏教を比較して、仏教が最も優れていると結論付けている。

儒教は、現世のことばかりで、人はどこから来て、どこへゆくのかという死後や来世について触れておらず、道教は死後、来世について多く語っているが、理論という面で幼稚で、とても頭のよい秀才の空海が納得できるものではない。

仏教はその面、この世も、あの世もすべてのことに関して理論付けており、空海のようなインテリをも十分納得させる素地がある。ということが書かれていた。

もし、空海がキリスト教を知っていたらどのように評価しただろうか?考えてみた。

実は空海が留学した長安にはすでに景教というキリスト教の一派がいて、景教寺院(つまりキリスト教会)があった。

また当時シルクロードの多くのオアシスを支配していたイラン系のソグド人が信じるゾロアスター教の寺院も長安にあった。

長安はその当時としては、最もコスモポリタンな都市で、唐の皇帝はあらゆる民族を保護し、あらゆる宗教を認めていた。

空海は長安にいた時たぶん景教寺院も訪れたのではないかと思われる。

さて、空海がキリスト教をどうのように評価したのか想像してみた。

たぶんキリスト教とて、仏教には敵わないと言ったと思う。

その理由として、ものごとの「抽象化」というのが挙げられる。

たとえば、新約聖書はキリストの弟子がキリストと一緒に旅をしたときにキリストが行ったこと、話したことをまとめた、旅行記、伝記である。(ヨハネの黙示録など、ちょっと毛色の変わったものもあるが)

つまり、ある場面、場面でキリストはどう言った、どのように振る舞ったかが書かれていて、それが信者の行動、道徳の規範になる。

ところがキリストに従っていた何人かの弟子の記録が微妙に異なることもあり、そのために教会はその解釈を説明する。

よく日曜学校や、教会の集まりで、牧師さんが、聖書のある部分を引用して、現在の事象の解釈として使うことがある。

たとえばどこかで紛争があれば、調停する言葉として、「汝の敵を愛せよ」を引用する。

要するに新約聖書は物語なので、法律の条文のようにきちんとした理論の形でまとめられていない。

従って牧師さんなりが、物語からいちいちそのエッセンスを引用する必要があるので、時代や人によって解釈が異なり、十字軍を正当化したり、魔女裁判が行われたり、ガリレオが逮捕されたりした。

仏教が興ったインドの征服民族であるアーリア人の特長として、なんでも「抽象化」しないと気が済まない性格があったと司馬遼太郎さんは語っている。

つまり、物語をそのまま記述するのではなく、そのエッセンスやその中にある規則性を抽出し、理論化するという傾向があった。

仏教の教祖である釈迦は、キリストと同様自分ではなにも書物を残していないが、その弟子やその後の信者が、多くのお経を残している。

キリスト教の聖書と異なるところは、まず聖書の様に公認されたお経というものはなく、つまりどれが最も正しい教えというものが統一されておらず、各宗派、各時代において解釈されたものが使われ、現在に至っても新しい解釈が出てきている。

仏教の場合、悟り、涅槃という最終の境地とは何か?それに至るにはどうすればよいか?ということが主な目的であり、釈迦というかつて歴史的に実在した人物が語ったことや、行ったことを記録することが目的ではない。

従って、現在において、お釈迦様はどう言ったということがそこまで論点にはならず、人が悟るためのお経があればよいということになる。

そしてその解釈はキリスト教のような物語形式のものもあるが、他の宗教には見られない科学的というか、論理的というか理論一点張りの無茶苦茶堅く、難解なものも多く存在する。

例えば般若心経。

漢字にしてわずか262文字の中に大乗仏教のエッセンスがすべて込められており、読むのは簡単であるが、本当の意味がわかる人はあまりいない。

般若心経は、今で言えば、仏教の憲法のようなもので、これ以上短縮できない程その理論が凝縮された、すぐれた理論である。

また来世や死後の世界についても、唯識論と呼ばれる現在でいえば心理学に相当する立派な理論が確立されており、旧約聖書に書かれているような、おとぎ話の領域を越えない、子供騙しの物語とは違っている。

申し訳ないが旧約聖書の天地創造から始まる物語は、どうみても現代人の正常な感覚からみて、全て本当にあったことと思えない。ノアの洪水は本当にあったかというような考古学的な見地からの検証はできるかもしれないが、キリスト経をを信じている人でないと、こんなバカな話を本当のことと信じることはできないと思われる。

ではなぜ高学歴の人たち、科学者や哲学者などで、今でも多くの人たちが旧約聖書を信じているかというと、理由は2つあると思う。

一つは、宗教というのは部分的に信じることができないこと、キリスト教の道徳観だけは信じ、その基礎になっている物語は信じないということができない。

もう一つは、来世や、死後の世界に対し、どんなに科学や文明が発達しても、まだ人は本当に納得できる回答を得ていないということだと思う。

ニセ十字

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今日久しぶりに夜空を見た。

雲ひとつなく、月もなかったので満天にたくさんの星が輝いていた。

シドニーは南半球にあるので、日本では見えない星が見える。

代表的なものは南十字星だ。

十字といいながら5つではなく、つまり十字が交差したところの星はなく、4つの星で構成されており、見ようによっては四角形ともとれる。

そして、まわりの星と比べてひときわ明るいという訳ではない。

ではなぜこんなに有名かというと、十字の長い方の対角線を延長するとほぼ南極を通過するのである。

つまり真南を知る道しるべになる。

古代はこの星を頼りに、島から島へ遠洋航海をしたらしい。

ところが南十字星とそっくりな星があり、ニセ十字と呼ばれている。

ニセ十字は本物よりも少し大きな十字で、さらに本物よりも先に夜空に上がってくるので、星に慣れていない人は見間違う。

今日など南天に上がったときは、左に南十字星があり、その10度くらい右に少し大きなニセ十字が輝いていた。

十字の形、方向はほぼ同じで、平行に並んでいるが、南十字が真南を指すのに対し、ニセ十字はずれている分だけ西の方角を指している。

古代、ニセ十字を南十字と間違えて、漂流してしまった船があったらしい。

ニセ物は、本物よりも大きく、そして先に姿を現す。

思春期

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娘はもうすく17歳になる。

人生の中で最も輝かしい時期に突入しようとしている。

私の娘も他のティーンエージャーと同じように、おしゃれをしたり、パーティーに行ったり、キャンプに行ったり勉強そっちのけで大忙しだ。

オーストラリアで11年生というが、日本で言えば高校2年生で、来年大学受験を控えている。

たぶんどこの親も子供が自分の将来の職業を見つけるべく、真面目に勉強してほしいと願っていると思う。

もう一つは勉強を真面目にすれば、遊ぶ時間がなく、変なボーイフレンドを連れてくることもなく、穏やかな日々になると親は願うのであるが、ところが、なかなかギッチョンチョンである。

17歳のティーンエイジャーは、親の中古の軽自動車のようなエンジンではなく、バリバリのV6、DOHC、ターボ付エンジンを持っていて、親の心配などどこふく風で、元気に遊びまくる。

特に娘を持つ父親というのは、実際になってみないとその気持ちがわからないことが多く、自分が若いころは女性に積極的にアタックしていた人が、娘を持った途端、自分が若いころのことを忘れて、もしくは反省してとても保守的になる人がいる。

とくに、娘が変な男にひっかかって、夜帰ってこなかったとしら、母親もそうであるが、父親はもっと心配して眠れない夜をすごす。

そして、父親は娘にどのように自分の心配していることを伝えることができるのだろう。

ほんとうに次々と難しい課題を与えられた学生のように悩みの連続である。

思春期は、エネルギーが大きいだけに、そのベクトル次第で、良いようにも悪いようにも大きく振れる。

私は自分と同年代の父親が娘の問題でとても悩んでいたのを多く見ている。

ある父親が「うちは男兄弟3人だけなので安心です」と言っていたのを思い出した。

ところが皮肉なことにその中の1人の息子さんが事件を起こし、それが原因かどうかわからないが、その方は60歳になる前に亡くなった。

娘がいない親だから安心ということはない。

むしろ娘ができたことで、自分が男なので今まで気付かなかった立場の違いがわかることで、人間がもっと深くなっていくというように考えるべきであろう。

親は、娘や息子を持ったことによって、今まで気付かなかった多くのことに気付き、それを面倒くさがらず1つ1つ解決していかねばならないと思う。

といってもなかなか難しいことですが。

悲しいこと

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今日のウェブニュースで1歳女児が父の車に誤ってはねられて死亡したという悲しいニュースを読んだ。

数日前にも、ドイツの動物園で、耳が短い珍しいうさぎの赤ちゃんが誕生したというニュースがあり、その赤ちゃんを取材しに来たカメラマンが後ずさりした時に誤って、その赤ちゃんを踏みつけて殺してしまったという記事を読んだ。

実は、以前にも似たようなニュースがあり、思い出した。

例えば、婚礼の後の駐車場で、親せきの年配の男性がオートマチックの車に慣れておらず、エンジンを入れた途端アクセルをふかして、前にいた花嫁、花婿など数人を車でひいてしまった事故。(昔のオートマは今のものと異なり安全装置がなかった)

これらの事件のなかで誰も悪人はいない。

どれもとても後味の悪い、どうしたらよいのか、胃が痛くなるいたたまれないニュースだ。

これよりさらに悲しいのは、善意でやったことが裏目に出てしまったものだ。

他人の子供を預かって車でその子の家まで送る途中、その子が車のサンルーフから頭を出して遊んでいて低いガードに頭がぶつかり死亡させた事件。

同じ車に乗っていた自分の子供は無事だった。

ある女性が親切心で男性にいろいろやってあげたことが、恋愛感情と勘違いされてストーカー行為を受けた事件。

お正月、年寄りのためにわざわざお餅をついてあげて、食べさせた餅がのどにつまって死んだ事件。

鯉の池に餌をやり過ぎて、水が汚くなり鯉が窒息した事件。

よかれと思ってやったことが、反対の結果がでてしまうことが悲しきかな、人生にはままある。

また事件と言うほどではないが、たとえば、

貧しい家の子供が、めったに買ってもらえないアイスクリーム買ってもらい、うれくてはしゃいでいるうちに、道にアイスクリームを落としてしまったとき。

太閤秀吉物語で、木下藤吉郎が主君からおいしい菓子をもらう。

珍しい菓子で、すぐにおっかあ(母)に食べさせようと急いで母に持っていくと、母は藤吉郎が奉公がつらくて帰ってきたものと勘違いして追い返した件。

「寅さん」シリーズで、寅さんの昔の年とった先生が、江戸川のうなぎが食べたいという無理な願いを寅さんにする。

寅は、「今は子供のころと違い、江戸川にうなぎなんかいないよ。」と先生に言うが、先生は「江戸川のうなぎはおいしかった。もう一度死ぬ前に食べたいなあ」と言ってきかない。

しかたなく、江戸川で釣り糸をたれる寅。

ところが奇跡が起こり、うなぎが釣れた。

寅は有頂天になり、いそいで先生の自宅まで走る。

「先生、釣れたよ。その辺で買ってきたものじゃなくて、正真正銘江戸川のうなぎだ!先生!」

ところが、その時老先生は、椅子にもたれてすでに死んでいた。

古くはシェークスピアのロミオとジュリエットの物語も、ジュリエットが仮死状態にもかかわらず、死んだと勘違いしたロミオは剣で自殺する。

舞台で見ている観客は、お芝居とわかっていながら、ロミオに「ジュリエットは生きている」と伝えたくなる、そういう物語だ。

悪意がなく、勘違いや、善意が裏目に出て起こる不幸は本当に心を痛める。

当事者にとってどんな辛いことか考えるだけでも脱力してしまう。

どうしたらいいんでしょうねえ。

平等とは

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私が1992年にオーストラリアに移住するまで、日本が世界でも最も平等な国だと思っていた。

初めてオーストラリアに着いて、働き口を探しているときに感じたのは、日本はこの当時女性の管理職の割合が男性と比べて非常に少なかったのに対し、オーストラリアはほぼ男性と同率で女性の管理職がいたことだ。

1990年代はまだ、セクハラという言葉もない時代で、日本では女性のお茶くみが当たり前であったころだ。

このとき運よくシドニー大学で日本語を教える機会を得た。

元々言語学を専攻していたこともあり、その後2年ほど大学で教えたが、その時地元のハイスクールのオージー(オーストラリア人の愛称)日本語教師とのミーティングに出席したときのことだ。

私は自分が日本人であり、オーストラリア人がいくら日本語がうまいといってもたいしたことはないとたかをくくり、少々バカにしていた。

私は驕りからどうも高飛車な発言が多かったようで、オージーの日本語教師の不評をかってしまった。

私の心のどこかで、高校の先生より大学の先生の方が偉いという偏見があり、それが無意識で出てしまっていることに気付いた。

この国では小学校の先生も、大学の先生も身分でいえば平等で、なん人も上から目線でものを言ってはいけないのだということを思い知らされた。

当時日本の経済はバブルがはじけたとは言え、まだまだお金持ちで、日本人のビジネスマンと話すと言葉の端々にオーストラリアをバカにして、偉そうに言っていたのを思い出す。

たとえば日本の会社がシドニーでガソリンスタンドを経営していた。

その日本人の社長と私は懇意で、ガソリンスタンドの従業員と話すときに、「私はあなたことろの社長と友達である」ということを先に言って、なんと言うか従業員に対して自分を偉く見せようとしたのであるが、その従業員は私が社長の友達であろうがなかろうが自分との身分とはなにも関係ないというように、私をいやな奴だという顔でみた。

オーストラリアでは、ほとんどの人がお互いにファーストネームで呼び合う。

会社でも、~部長とか、~課長とか言わず、JohnとPaulである。Mr.も付けない。

日本人は上司の名前を呼び捨てすることに慣れておらず、Mr.なんとかMissなんとかと言っている人がいたが、周りから浮いていた。

また、自分の名前をファーストネームで呼ばれるのが好まない日本人がいて、オージーに対してもMr.なんとかと自分を呼ばせていた日本人がいたが、オージーにとってその呼び方は、彼が尊敬される人だからMr.をつけたというよりも、前近代的な偉そうな奴で、平等がわからない田舎者という気持ちの方が強かったと思う。

日本人は相手が年長者であれば敬語をつかうのが当たり前と思っているが、それが不平等とは思っていない。

年功序列は、日本人にとっては美徳であり、みんなが歳をとっていくのであるから、歳をとったものが尊敬されるのは当たり前で、これはこれで平等な考えだと思っている。

ところが、世の中には歳をとったことが偉くなったことと勘違いする人がいて、抑圧的にしゃべる人がいたり、それを文句も言わずだまって聞いている日本人がいるのもよくある光景である。

日本は、年長者がしゃべっているときは、黙って聞かないといけないと思うひとが多くいて、あまり活発な議論にならない。

また、日本ではお客様は神様であり、極端に言えば、客であれば多少の無理が言えると思っている。

オーストラリアでは客も店主も同等であり、客だからえらそうにするのは許されない。

客が正当な理由があったとしも、怒って店主に大声をあげれば、それだけで店主は警察を呼ぶ。

どんなに怒っても人を侮辱したら罪になるのだ。

日本の平謝りに謝ったり、土下座したりする卑屈な態度とえらい違いだ。

オーストラリアでタクシーに乗る時のマナーとして、1人の場合、助手席に乗るのを御存じだろうか?

タクシーの運転手と客は平等であるということを身を持って示すためである。

こうして1つ1つ書いて、私がオーストラリアで経験してことを伝えているが、要は日本人が平等だと思っていることに対しても、外国では平等ではないことがあり、日本人が自分たちは世界で最も平等だと思っているとしたら、それは世間知らずの井の中の蛙であると言いたい。

母は強し

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先日、クライアント先の小学校に行ったときのことである。

屋外にある駐車場に車を停めたところ、一羽の鳥が寄ってきた。

鳩くらいの大きさで、鳩よりは細身であり、全体が灰色で鶏冠が黄色い鳥だ。

私はオーストラリアにいる割には、鳥の名前、植物の名前等、自然のことに関して全く疎い。

その鳥は、小さな体の割には、ものすごい声を上げて私に近寄ってきた。

決して歓迎している様子ではなく、どちかというと威嚇している。

私が近づくと、後ずさりをしながら叫ぶ。

私が後ずさりをすると、叫びながら寄ってくる。

悲鳴に近い、ものすごい大きな声だ。

これが人であれば、次の日に声が出なくなるほどの大きなだみ声だ。

私はふと、何かあると思い、周りを見渡した。

すると、車の駐車場の端に1メール幅の芝生があり、その中に2個の小さな卵を見つけた。

この鳥はその卵を守るために私を威嚇していたのだ。

子供を守るために自分の何十倍もの者にくってかかっていたのだ。


実は今日、同じ小学校に行き、車を別の場所にとめ、様子を見に行った。

遠くから見たが、その鳥は卵を温めるようにじっと座っていた。

座っている場所は、周りが全てアスファルトで、駐車場の仕切り代わりにある小さな芝生の上だ。

四方遠くからも丸見えのところで、よくこんなところに卵を産んだと思う。

丁度学校が休み中なので、今、人はあまりいなが、2週間もすると、学校の生徒が登校し、なかには鳥にちょっかいを出す奴もいるだろう。

自然に疎い私は、この鳥の卵がいつ孵り、雛が歩いてこの危険なところから避難できるようになるのかとても心配である。
日本のニュースで、ここのところタレントのオセロ中島さんのマインド・コントロールの記事が紙面を賑わしている。

同居している占い師(霊能師)の女性からマインド・コントロールを受けていたとのことであった。

記事はさらに同じ占い師と以前同居していた女性へのインタビューを載せ、その女性もマインド・コントロールされていたことを認め、またそのマインド・コントロールから完全に抜け出るまでに2、3年かかったと言っている。

この記事を読んだとき、オーム真理教事件を思い出した。

同じく多くの信者は知らず知らずにマインド・コントロールを受けていたと言っていた。

果たしてマインド・コントロールとは何なのだろう?

わかったようでわからない言葉で、大の大人をそんな簡単に操れるのだろうかという疑問が湧く。

考えてみればよい、自分は今まで誰かをマインドコントロールしたことがあるだろうか?

身近な人、例えば妻や子供は自分の言うことを聞いてくれるだろうか?

家族を含め、周りのだれも自分のいうことを素直に聞く人がいないのに、どうして他人に対してそのようなコントロールできることになるのだろう?


人は自分の将来、未来に対してなにかよい情報を得ようとする。

科学的な分析や、数学的な確率の分析だけでは満足しない。

もっと自信を持てるような確実な予想を求めて人々は、占い、予言、宗教に手を出してしまう。

なぜなら彼らは自信たっぷりにその未来を語ってくれるからだ。

でもよく考えたらほとんどの占い師は、自分の未来を予想できないし、他人にお金持ちになる方法を教授している割には、自分はお金持ちではない。

占い師でお金持ちは、テレビなどで有名になってどちらかというと本業よりもタレント業で儲けた人たちだ。

いったい、誰が東日本大震災の前に声を上げて地震を予測したのだ!

この占い師の中には、騙してやろうと思って近づいてくる人たちもいるが、多くは、自分のやっていること、自分の占いに自らがマインドコントロールされている人が多く、つまり簡単にいうと頭がおかしい人が多いと思う。

ニュースを読むと、誰でもそんなバカな、あんなバカな占い師に騙されるなんて考えられないと思うだろうが、毎日なにか判断を迫られ、戦っている人たち、たとえばテレビのタレントさんであったり、企業の社長であったり、株の取引をしている人たちは、きっと藁をもつかむ気持ちで、なにか自分にいいことを言ってくれる人にすがりつくのであろう。

よく大企業の社長がよく専属の占い師を持っているというのを聞くが本当なのだろうか?

以前、故レーガン大統領夫人のナンシーさんが、占い師のいうことを聞いて政治をやっているという噂が立ったことがある。

こういう人たちから身を守るのは簡単で難しい。

つまり、一切の欲がなく、死ぬのも怖くなければ占いはいらない。

偶然にYoutubeで「知っているつもり:司馬遼太郎」を見つけた。

いままで、司馬さんの多くの作品を読んできたが、自叙伝的なものは読んだことがなかった。

彼は、大阪上宮中学時代(現在、上宮高校)は成績が極端に悪く、成績は300人中、291番で、数学と体育は全くできなかったそうだ。

彼は黙って授業を受けることができなかったらしい。

エピソードして、英語の教師がNew Yorkという文字を黒板に書いた時、彼はどういう意味があるのか?と教師に質問した。

教師は、顔をいがめて、「地名に意味があるか」と言って、彼を睨めつけたそうある。

ところが後で図書館でNew Yorkの地名の由来を調べると、当時の英国国王の弟Yorkの名前を取ったと書いてあることがわかった。

このあたり、「竜馬がゆく」を読んだことがある人は、竜馬のエピソードと重なると思われるかもしれない。

竜馬も寺子屋の先生に「おたくの子息の面倒をこれ以上みれません」と言って見放され、小さい頃は自分は人よりもバカだという劣等感があった。

その後、姉の乙女に付いて勉強することになる。

大きくなってからも、勉強の仕方が他の人とは異なり、例えば難しい読んだこともない漢文を素のまま(レ点、返り点など無視して)読んでいき、そのおかしな発音に周りのものは大笑いしたのだが、その意味を尋ねられると要点を押さえた解釈をして、周りを驚かせたそうである。

今わかったのは、司馬遼太郎さんは、竜馬を調べれば調べるほど小さいころの自分の境遇と同じような人物に出会い、その人物がやがて日本を大きく動かす大仕事をするようになったことに励まされ、自分も同じ志をもとうと誓い、その勢いもあって「竜馬がゆく」は、あれほどの作品になったのではないかと思う。

かく言う私も、中学、高校時代は散々な成績で、とくに英語はいつも欠点で下駄をはかせてもらって卒業したほどだ。

わたしも司馬さんとおなじく、黙って教室で勉強できるタイプではなかった。

実は小学校の成績はよかったのだが、その時は、いつも教室で先生や友達と対話しながら学習していたからだ。

中学のときに転校したこともあり、新しく行った中学は、授業中だれも手を上げず、先生に質問せず、黙々と勉強するという、私にとっては外国に来たようなカルチャーショックだった。

そしてそれがどちらかというと日本では普通ということを後で知った。

英語が全くできなかった者が、なぜ今シドニーで暮らしているのかという不思議はまた次回。
司馬遼太郎さんの「空海の風景」を読み終わり、同じ司馬遼太郎さん原作で、江戸時代後期にロシア船の出没する北の海で活躍した高田屋嘉兵衛の生涯を物語にした「菜の花の沖」を読んでいる。

文庫で6巻あるうちの1巻目を読んだところだが、とても興味深いことが書かれていた。

江戸時代の農村の組織であるが、大人の組織とは別に、各村々で元服(この言葉は武士の言葉だが)を迎えた13歳―15際くらいの男子は「若衆組」、「若者組」、「若連」、「二才(ニセ)組」といわれる、現在で言えば町内の青年団のような組織に全員組み入れられる。

その「若衆組」という組織は、大人の組織から独立しており、関係も大人の組織と対等の関係であったと言う。

若衆頭を長として、組織の若者はその命令に服さねばならない。

またこの組織は自分たちの村を守るというのが目的で、とても排他的で、隣村の「若衆組」といつも張り合い、時に喧嘩をし、婚姻なども他の村の女性と結婚するなどとは考えられないというものであった。

この「若衆組」の組織内容を読んでいて何か、日本人の組織やその行動のルーツを見たような気がした。

私が生まれた昭和30年ころは、まだこのような組織の雰囲気がたくさん残っていた。

私は都会の下町育ちであったために、田舎ほどではなかったが、たとえば中学校では番長を頂点とした不良グループが存在し、やくざ組織と似て堅気(普通)の生徒には手を出さず、どちらかというと他校に出向いて、同じような番長グループに決闘を申し込んでいた。

番長に言わせると、「自分は母校の名誉のために戦っている」のだそうである。

また番長グループは、風紀委員も兼ねていて、服装が派手な生徒や、生意気な生徒を体育館の裏に呼び出して注意したり、殴ったりしたが、およそ自分たちが一番おかしな格好をしていた。

昔、「嗚呼花の応援団」という漫画があったが、応援団や体育系クラブは大学の中でも先輩後輩の規律がやかましく、1年、2年はゴミ、クズで、3年になって初めて人並みになり、4年生は神様というような序列をつくり、4年生の言うことは無理なことでも、バカなこともでも何でも口答えなしに従うというものであった。

地方の大学の寮などでは、それが如実で、先輩から制裁されたことが原因で、自殺したり自殺未遂したりする事件があった。

「菜の花の沖」に戻るが、主人公嘉兵衛は、淡路島にある生まれたことろの村の若衆組に属していたが、仕事の関係で隣村の親せきの家に移り、働いていた。

そして、そこで網元の娘、おふさを見初めたことで事件が起こる。

なんか江戸版ロミオとジュリエットみたいだが、お互いの組織が排他的にいがみ合っていたという点では共通している。

そして事件には付きものだが、嘉兵衛を落としいれようとする駒吉という若者が登場する。 

駒吉は、嘉兵衛に闇打ちを仕掛けたり、嘉兵衛がものを盗んだように仕立てて濡れ衣を着せたりする。

それが嘉兵衛の知るところとなり、駒吉が盗みを働いた現場を押さえて、大衆の前に付き出す。

ただ付き出した場所は、自分の若衆組があるところではなく、仕事場の隣村の駒吉の村であった。

裁きはその村の若衆組で行われ、駒吉はすでに大衆の前で恥をかかされたということでお咎めなし、被害者である嘉兵衛は、自分の村の若衆組で詮議を受けるが、隣組との争いを恐れた組頭が、1年間の村八分という思い刑を言い渡す。

今では考えられないような不平等で偏見に満ちた裁きであるが、私はこういう身びいきという考え方が今でも日本人の中に深く残っているような気がする。

田中元首相のロッキード事件を思い出した。

世間やマスコミがいくら田中元首相を糾弾しようが、裁判で有罪判決を受けようが、彼の選挙区の人たちは微動だにせず彼を応援、庇い通した。

そしてそれが彼を糾弾している人たちの間にも、何か義理人情に厚い美談のように感じていたのではないか?

もちろん、仲間を庇うという行為はとても素晴らしい行為ではあるが、それによって善悪が乱れ、嘉兵衛のように、濡れ衣を着せられ、村八分にされてしまう者がでてくる危険性がある。

現在はどうかというと、若衆組の結束は昔ほどではないにしろ、地方の青年団にかなり受け継がれていると思う。

さらに言うと日本が1つの村のようになって若衆組を作っていると言ったら言い過ぎだろうか?

昔ほど極端でないにしても、精神的に文化的にそのような排他的なものがしっかりと根付いていると私は感じている。

これを愛国心と呼べばとても聞こえがよいが、村八分にされた人たち(特定しないが、自分で考えてみてください)にとってはとても苦しいものだと思う。

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  • HAGETAKA: そちらの大学では、先生の名前をファーストネームで呼ぶ人が多いとのこと。日本ではそれはないです。 日本の大学では、「~先生」と呼ぶのがあいかわらず主流ですが、先生に「~さん」と呼ぶ学生も出現しています。 師弟間でお互い「~さん」と呼び合うのは、そちらの平等感覚からすれば、どうってことはないんですね。 続きを読む
  • admin: ご質問ありがとうございます。 小学校、ハイスクールまでは、先生をMr. Missを付けて呼びますが、大学からは、ファーストネームで呼ぶ人が多いと思います。 オーストラリアは、18歳が成人で、成人になれば同等と考えているように思えます。 学校以外の師弟関係は、例えばバレースクールでは、女性の先生を子供がファーストネームで呼ぶことが多いと思います。 日本では年下が年上をファーストネームで呼ぶのはとても失礼なことですが、オーストラリアではファーストネームで呼ぶというのは、親しみをこめるという意味もあります。 シドニー大学で教えているときに、学生に自分の親をどう呼ぶかという質問をしたところ、多くは、Dad, Mumですが、中にはファーストネームで呼んでいる人もいてびっくりしました。 息子が小さいころ、私をファーストネームで呼んだことがあり、注意をしましたが、息子は、NameはNameではないか、何がおかしいのか?と私に食って掛ったことを想いだしました。 続きを読む
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